至高性の揺らぎ

 

入管戦記

入管戦記

 

いまは法務省入国管理局発行のICカードになってしまったが、その昔、外国人登録証明書自治体が発行していた時代があった。

そんなとき、東京入管局長だった坂中氏によれば、こういうことがあったという。

「これまで不法滞在の外国人に平気で外国人登録証明書を出していた新宿区役所にも変化が訪れている。以前は、在留資格のない外国人が堂々と窓口に並び、わざわざ「在留の資格なし」と記載された外国人登録証明書を受け取っていたのだ。おかしな話だが事実なのである。

区役所は、不法残留外国人であることが明らかでも、それを入管に通報することはしない。タテ割り行政の弊害とでもいうのか。役所と役所のナワバリの隙間を突いて、法を守らない外国人が役所に列を作るという首をかしげたくなるような現実がまかり通っていた。

外国人登録証明書が、どんな形にせよ交付されるということは、不法滞在の外国人でも銀行口座を持つことができ、携帯電話を買うこともできる。さらに、働き口も見つけられる。たとえその裏側に「在留の資格なし」と大きく太い字で書かれてあっても、生活の基本条件を整えることはできてしまう。」(坂中 2005:32)

 

ほう、新宿区役所
在留資格がないとわかっていながら登録書を発行していたのはなぜだろうか。

 

「われわれ入国管理の現場は、じつは、このような政治家からのさまざまな圧力にさらされている。許可・不許可の具体的な審査案件についてまで政治家の介入がある。(略)「興行」問題ほど、一部政治家の入管行政への「介入」が露骨な形で現れるものはない。外国人芸能人からの陳情はほとんど考えられないから、外国人を受け入れる業界側から強力な陳情があったとしか考えられない。」(坂中 2005:83)

このような「圧力」が区役所に対してあったということなのだろうか。いずれにしても、外国人の在留をめぐって国と自治体が異なる判断をしているというのは面白い。

カール・シュミットいわく「政治的なるもの」とは、仲間と敵の区別である。これを友敵理論という。主権国家は、領土の境界=国境と同じように、統治の客体としての国民の境界を定めるが、同時に国籍は付与しないまでも我々の仲間としたい在留外国人とそうでない外国人を区分けしようとする。

しかし、主権国家の判断と自治体の判断がずれることがある。「仲間」の判断は、主権国家=入管だけの判断が至高ではない。入管にとっての好ましい「仲間」の判断から漏れてしまった外国籍者も、自治体や地域にとっては必要な「仲間」であることもある。その至高性を部分的であれ突き崩してきた新宿区役所の行いは興味深い。