ポピュリズムの功罪

 

ポピュリズムの理性

ポピュリズムの理性

 

 

極右に対抗「左派ポピュリズム」広がる 政治家に存在感:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASM263FGWM26UCVL005.html

山本先生が指摘されているように、日本ではポピュリズムというと「右派ポピュリズム」のイメージが強い。右派というのは、〈極右ポピュリズム〉などに代表される排外主義的な性格の強いものである。しかし、”ギリシャの急進左翼進歩連合(シリザ)やスペインのポデモスといった政党をはじめ、英国労働党のコービン、「不服従フランス」のメランション、米国のサンダース、さらに最近になると富裕層への課税を訴える民主党のオカシオコルテスといった政治家らが存在感を示している”。彼らは、”既得権益層(エスタブリッシュメント)に対抗する勢力をまとめあげ、いっそう公正で民主主義的な再分配を要求”する(以上、記事本文)。

 

ラクラウ曰く、ポピュリズムとは、共通の「敵」に対峙することでそれまでバラバラだったひとびとを繋げるものである。バラバラなものを同じものとして繋げるので、これを「等価性の連鎖」という。敵の敵は味方、ということだ。左右のポピュリズムの違いは、この「敵」が、既得権益層やエリートか、移民や他民族であるか、の違いである。この「敵」を打ちのめすシンボルとしての「シニフィァン」のもとにひとびとが繋がる。

 

かくして既存のデモクラシーが掬えなかったバラバラだったひとたちを繋げて立ち上げるのが「人民」である。ポピュリズムは、空洞化した民主主義に、漏れたしまった人たちを再びコミットさせる機能を持つ。功罪両面からポピュリズムをとらえる必要があるだろう。もちろん、ポピュリズムが「敵」の否定から始まることの凶々しさは忘れてはならない。

 

日本において「安倍一強」「自民党優位政党制」を打破するためにはどうすべきなのか、という観点から、左派ポピュリズムに期待する人々も少なくないだろう。その場合は、いかなるシニフィアンを構築するかは割と大事である。「反アベ」(あえてカタカナ)はコアな層には訴求するけれども広がりを欠く。むしろ現政権こそが「反・民主党政権」をシニフィアンとしているのだとさえ思うし、その方が支持を集めそうでもある。キャリア官僚からストリートレベルの公務員までごちゃまぜにした「公務員バッシング」は、ときにシニフィアンとして有効だったが、児童相談所の人員不足などに見られるような弊害があちこちでささやかれるようになると、以前ほどの力を持ってこない。そもそも否定性に基づく情動が、継続的で安定的な政治を生むのか。永遠に否定すべき何かや誰かを探し続ける政治に、規範的には同意できないところもある。功の側面は理解できるが、左派ポピュリズムへの期待は少し留保すべきかもしれない。