ゴーン氏保釈と国際世論

ゴーン氏、保釈。黄色ではなく、オレンジ色の反射べストだったのは、大使館の車まで出してくれたフランス政府への恩義から「黄色いベスト」にしたくなかったからだろうか。

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(保釈時の様子@「every.」日本テレビ

ゴーン氏の罪と罰については今後の司法で議論されていくことと思うが、ひとつ日本全体にとって痛手だったのは、長期勾留や弁護士の同席しない長時間の取り調べなど司法制度に対する国際的な批判が高まったことであったのではないか。公判前整理手続きを終えずに保釈したのは、裁判所としてもこうした国際世論を意識したとの指摘もある。フランス政府が大使館の車で東京拘置所にゴーン氏の家族を乗せてきたのも、「人権」の国としてこの問題を注視しているとのメッセージとも取れる。

あえて「日本の司法」ではなく「日本」全体としたのは、ことは司法の問題ではない。政府は近年、社外取締役制度の導入など国際標準のビジネス環境作りに力を注いできた。しかし、司法制度に対する国際的な信頼・信用が傷つくとグローバルなビジネス環境の整備に対してもアゲインストである。今後政府が、民事のみならず刑事の分野まで踏み込むのか、注目していきたい。

基地問題は住民投票に馴染むか。

「みんなで決める」難しさ 辺野古沖縄県民投票:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/DA3S13903954.htm

 

高久潤記者は本当に勉強になるいい記事を書きますね。

 

吉田徹・北海道大教授(比較政治)は、

「代表制が機能不全に陥り、県民に丸投げする形に至ってしまった」

 しかし、賛成/反対という選択肢になりがちな直接投票には争点が単純化する危険が伴う。国民投票で結果が出た後も、EU離脱の条件をめぐって混乱する英国は象徴的な事例だ。吉田さんは「沖縄も、投票後の政権側との落としどころが見えていない中では、かえって政治不信と世論の分断を深めかねない」と危惧する。

(一部略)

政治思想史が専門の宇野重規・東京大教授は、

 参考になるのは民主主義のモデルとして後世から参照される紀元前5世紀のギリシャのポリス・アテネだという。

 当時の最高意思決定機関・民会では、数万人の市民が集まり、専門家の意見を聞きながら、演説や議論を通じて最後は拍手や喝采で決めていった。

 「よい決定=民主的な決定、かどうかは、参加している人が『みんなで決めた』という感覚をつくれたかどうかで決まっていた」ため、投票ではなかったという。

 合意形成に失敗すると最初からやり直しに。法案はゼロから作り直された。市民の民会での発言は細かく記録に残され、矛盾や虚偽は批判にさらされる。言葉と感覚のみでつくられ、支えられることが「民主主義」の根幹だったとみる。

 「民主主義の本質は誰もが平等な存在として扱われているという感覚。どちらかが負け、と白黒つける直接投票は『決めてしまいたい』という欲望の表れでしかなく、問題の解決手段にならない。なぜ直接投票しなければならなくなったのか。沖縄でも英国でもその問いを考えるべきだ」

 (一部略)

政治には二つの側面があって、「決定」する政治と、そこに至るまでの「プロセス」の政治がある。 私たちは迅速に結果の出やすい「決定」の政治に目を奪われがちだが、そこに至るまでの「プロセス」も合わせて重要だ。みなに投票権があったとしても、短兵急な決定は単純に勝者側と敗者側を区分けし、亀裂を深めてしまいうる。もちろん「決定」のもたらす帰結を軽視して良いということではないし、「決定」をいたずらに引き伸ばせば良いというものでもない。

本来であれば、代議制民主主義のもと、選良達がより多くの人が合意する政策案に向けて合意形成を図るべきであったのかもしれない。しかし、国会での審議は形骸化し、代議制民主主義の最も重要な側面である「プロセス」の政治が軽んじられたからこそ、ある種「決定」を突きつける、こうした住民投票に至ったのではないか。(吉田さんに近い見方。)

一方、主に国政が担う外交・安全保障は効率的・一元的な決定が求められ、主に地方自治が担う生活・教育・福祉は開放的・多様な民意の合意が求めれる、とするならば、それが住民投票に馴染む政策か否かという視点もあるだろう。もちろん、その厳密な区分けも難しいだろう。外交・安全保障に関わるとはいえ、辺野古基地問題が、迅速な決定が求められる政策課題なのかどうかも留意しなくてはいけない。

 

とはいえ、今回の住民投票の結果は拘束力がない。まだ「決定」ではないのである。ということは、これを一つの材料として代議制民主主義における「プロセス」の政治に再び持ち込むことができる。あとは選良達の腕の見せ所なのかもしれない。

 

デモクラシーの政治学

デモクラシーの政治学

 

 

”反日”の悲しき背景?

澤田克己 (毎日新聞記者、元ソウル支局長)「日本は韓国にとって”特別な国“」は冷戦終結で終わった 日韓関係の構造的変化を考える(2) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15370

この30年の間に、韓国における日本の存在感は驚くほど低下した。韓国側からあまりにも「軽い」発言が出てくる背景には、この日本の存在感低下がある。こうした韓国側による認識の「軽さ」は極めて問題だが、一方で冷戦終結という世界史的な出来事の影響を考えると日本の存在感低下という現象は必然のものだった。

なるほど。韓国にとっては政治的にも、日米を基軸とした外交から、中国、東南アジア、EUなど多角的な外交に展開していることが示されている。貿易に関しても以下。

日韓国交正常化から5年たった70年を見ると、韓国の貿易相手国としてのシェアは日本が37%、米国が34.8%で合計すると7割に達した。日米の比率は徐々に落ちていくが、90年でも日本23.1%、米国26.9%で貿易全体の半分が日米を相手としたものだった。ただ日米合計の比率が50%を超えたのは90年が最後で、その後は直線的に落ちていく。韓国がOECDに加盟した96年には30%台となり、04年には20%台、11年にはついに10%台となった。昨年(18年)は日本7.5%、米国11.5%で計19%である。

 80年代から細々とした交易が始まった中国のシェアは90年に2.1%だったが、01年に10.8%、09年には初めて2割の大台に乗せるとともに日米合計(20.1%)を上回る20.5%と順調に伸びた。昨年は23.6%に達している。

South Korea’s Faustian Dilemma: China-ROK Economic and Diplomatic Ties (Part I) https://piie.com/blogs/north-korea-witness-transformation/south-koreas-faustian-dilemma-china-rok-economic-and-0 を確認。たしかに。

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韓国にとって日本はそれほど重要な国ではなくなっているという指摘。一部日本の保守系政治家は、票になるから言っているのだ、と”反日”的な発言をする韓国の政治家をなじるが、もはや韓国の有権者にも関心は低く、単に日韓関係がギクシャクしたところで韓国にとってたいした意味はないので踏み込んだ発言に対するストッパーが効かないだけ、という見方もできそう。以前の”反日”発言とは背景が違っていているようだ。

至高性の揺らぎ

 

入管戦記

入管戦記

 

いまは法務省入国管理局発行のICカードになってしまったが、その昔、外国人登録証明書自治体が発行していた時代があった。

そんなとき、東京入管局長だった坂中氏によれば、こういうことがあったという。

「これまで不法滞在の外国人に平気で外国人登録証明書を出していた新宿区役所にも変化が訪れている。以前は、在留資格のない外国人が堂々と窓口に並び、わざわざ「在留の資格なし」と記載された外国人登録証明書を受け取っていたのだ。おかしな話だが事実なのである。

区役所は、不法残留外国人であることが明らかでも、それを入管に通報することはしない。タテ割り行政の弊害とでもいうのか。役所と役所のナワバリの隙間を突いて、法を守らない外国人が役所に列を作るという首をかしげたくなるような現実がまかり通っていた。

外国人登録証明書が、どんな形にせよ交付されるということは、不法滞在の外国人でも銀行口座を持つことができ、携帯電話を買うこともできる。さらに、働き口も見つけられる。たとえその裏側に「在留の資格なし」と大きく太い字で書かれてあっても、生活の基本条件を整えることはできてしまう。」(坂中 2005:32)

 

ほう、新宿区役所
在留資格がないとわかっていながら登録書を発行していたのはなぜだろうか。

 

「われわれ入国管理の現場は、じつは、このような政治家からのさまざまな圧力にさらされている。許可・不許可の具体的な審査案件についてまで政治家の介入がある。(略)「興行」問題ほど、一部政治家の入管行政への「介入」が露骨な形で現れるものはない。外国人芸能人からの陳情はほとんど考えられないから、外国人を受け入れる業界側から強力な陳情があったとしか考えられない。」(坂中 2005:83)

このような「圧力」が区役所に対してあったということなのだろうか。いずれにしても、外国人の在留をめぐって国と自治体が異なる判断をしているというのは面白い。

カール・シュミットいわく「政治的なるもの」とは、仲間と敵の区別である。これを友敵理論という。主権国家は、領土の境界=国境と同じように、統治の客体としての国民の境界を定めるが、同時に国籍は付与しないまでも我々の仲間としたい在留外国人とそうでない外国人を区分けしようとする。

しかし、主権国家の判断と自治体の判断がずれることがある。「仲間」の判断は、主権国家=入管だけの判断が至高ではない。入管にとっての好ましい「仲間」の判断から漏れてしまった外国籍者も、自治体や地域にとっては必要な「仲間」であることもある。その至高性を部分的であれ突き崩してきた新宿区役所の行いは興味深い。

 

 

ポピュリズムの功罪

 

ポピュリズムの理性

ポピュリズムの理性

 

 

極右に対抗「左派ポピュリズム」広がる 政治家に存在感:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASM263FGWM26UCVL005.html

山本先生が指摘されているように、日本ではポピュリズムというと「右派ポピュリズム」のイメージが強い。右派というのは、〈極右ポピュリズム〉などに代表される排外主義的な性格の強いものである。しかし、”ギリシャの急進左翼進歩連合(シリザ)やスペインのポデモスといった政党をはじめ、英国労働党のコービン、「不服従フランス」のメランション、米国のサンダース、さらに最近になると富裕層への課税を訴える民主党のオカシオコルテスといった政治家らが存在感を示している”。彼らは、”既得権益層(エスタブリッシュメント)に対抗する勢力をまとめあげ、いっそう公正で民主主義的な再分配を要求”する(以上、記事本文)。

 

ラクラウ曰く、ポピュリズムとは、共通の「敵」に対峙することでそれまでバラバラだったひとびとを繋げるものである。バラバラなものを同じものとして繋げるので、これを「等価性の連鎖」という。敵の敵は味方、ということだ。左右のポピュリズムの違いは、この「敵」が、既得権益層やエリートか、移民や他民族であるか、の違いである。この「敵」を打ちのめすシンボルとしての「シニフィァン」のもとにひとびとが繋がる。

 

かくして既存のデモクラシーが掬えなかったバラバラだったひとたちを繋げて立ち上げるのが「人民」である。ポピュリズムは、空洞化した民主主義に、漏れたしまった人たちを再びコミットさせる機能を持つ。功罪両面からポピュリズムをとらえる必要があるだろう。もちろん、ポピュリズムが「敵」の否定から始まることの凶々しさは忘れてはならない。

 

日本において「安倍一強」「自民党優位政党制」を打破するためにはどうすべきなのか、という観点から、左派ポピュリズムに期待する人々も少なくないだろう。その場合は、いかなるシニフィアンを構築するかは割と大事である。「反アベ」(あえてカタカナ)はコアな層には訴求するけれども広がりを欠く。むしろ現政権こそが「反・民主党政権」をシニフィアンとしているのだとさえ思うし、その方が支持を集めそうでもある。キャリア官僚からストリートレベルの公務員までごちゃまぜにした「公務員バッシング」は、ときにシニフィアンとして有効だったが、児童相談所の人員不足などに見られるような弊害があちこちでささやかれるようになると、以前ほどの力を持ってこない。そもそも否定性に基づく情動が、継続的で安定的な政治を生むのか。永遠に否定すべき何かや誰かを探し続ける政治に、規範的には同意できないところもある。功の側面は理解できるが、左派ポピュリズムへの期待は少し留保すべきかもしれない。

 

 

若者の右傾化に関するオンライン調査

若者の右傾化には様々な議論があるが、

稲増 一憲,三浦 麻子,オンライン調査を用いた「大学生の保守化」の検証 : 彼らは何を保守しているのか (藤原武弘教授退職記念号) 関西学院大学社会学部紀要 0452-9456 関西学院大学社会学部研究会 2015-03 120 53-63

オンラインで読めます。

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イデオロギーについては「大学生においては社会人に比べ、やや保守的な者が多く革新的な者が少なかった」、個別の政策についても「靖国参拝原子力発電においては大学生の方が明らかに保守的な態度を持っていた」(図も含めp.58)という結果となっている。

 一方で、憲法改正集団的自衛権という安全保障に関わる争点については、それに対する態度と保革イデオロギーを結びつける正確な知識を持つ大学生は少なかった。つまり争点態度とイデオロギーに関する知識が一致していないものが多いとの結果であった。

さて、靖国原発に関しては一致度が高かったのであるが、著者らはその理由を次のように考える。

なぜ、靖国参拝原子力発電という 2 つの争点においては保革イデオロギーと争点態度 の関連についての知識を持つ大学生が多かったの かという点については、本研究における分析のみから結論づけることはできないが、ひとつの可能性としては、これらが 2013 年末から 2014 年初に おいて顕出性の高い争点であったことが挙げられ るだろう。つまり、彼らにおいて保革イデオロギ ーとは、多くの争点態度を統合する構造ではなく、顕出性の高い一部の争点についての態度を表す記号として機能していたため、実際に与野党間で議論となった争点においてのみ、保革イデオロギーと争点との関連が理解されたという可能性で ある。

 

論文の検証とは全く関係ないけれど、 靖国参拝原子力発電に関する学生の争点態度は、自分自身がそう考えるからそうなのではなく、安倍政権が賛成しているから支持するということなのではないか、とふと思った。これもサーベイ実験などで出来そうだし、誰かもうやっているのかもしれない。やってるっぽいな。(誰か知ってたら教えてください。)

 

まあ先行研究でAlford, Funk, and Hibbing(2005)あたりが引かれていたんですけど、で、それはどういう研究かというと、 

Alford, Funk, and Hibbing(2005) は、個々の争点については環境の影響が強いものの、イデオロギーについては環境よりも遺伝による影響が大きく、保守─リベラルイデオロギーの 半分程度の分散が遺伝によって説明されるという 結果を示している

なんですが、移民政策に舵を切って彼らに参政権を与えない限り、ほぼほぼ日本は保守政権の国にならざるを得ないんですよ。だから政権交代可能な政党システムを考えたいなら、そこで「第二保守党論」なんですよ()!

首相所信表明演説の研究

日本政治学会が発刊している学会誌『年報政治学』より、できたてほやほやの2018年2号。ソジエ内田恵美「戦後日本首相による所信表明演説の研究:-Discourse Analysisを用いた実証研究-」

 

年報政治学〈2018‐2〉選挙ガバナンスと民主主義

年報政治学〈2018‐2〉選挙ガバナンスと民主主義

 

所信表明演説の表現に注目し、メディアの発達や経済政策における業績などにどの程度影響を受けているか、など。

計量的には結果として出ているが、これはまったく批判ではなく素朴な疑問なのだけれど、実際のスピーチライターが「いや俺/私はそんなこと考えて書いてないよ」なんて言ったらどうするのだろうか。いえ深層心理はこれです、と言うのだろうか。自治体(首長)研究にも使えそうですね。